社会調査法のレポート(mixiより転載)

「誰でもいいので一人ライフヒストリーを聞いてインタビューしてこい」っていうレポートがあったので、やったんですわ。
マイミクの人にお願いして、凄い時間かかってこんなもん出来ました。
言葉も文体も変だけど面倒くさいのでこのまま提出。
あれだけ頑張ったのにこの出来ですかというしょうもないレポートに仕上がってしまいましたけど、次はもっと上手くいくはずです。

にしても、mixiにupするには長文すぎたかも。。絶対、誰も読まないし。。
でも、誰か読んでくれー。



「自分の力で上京した青年の苦労と葛藤」

はじめに
今回インタビューする方は、インターネットから知り合った22歳のフリーターである。個人で放送するネットラジオというものをしていて、マンガを話題の中心として放送をしている。彼のライフヒストリーから何が見えてくるのか今は正直分からない。が、とりあえず進めていこう。

−お名前は?
松澤です。

−どこでお生まれですか?
長野県長野市に生まれたんですけど、すぐ一年後に新潟県西蒲原郡分水町ってとこに引っ越しましたね。そのきっかけはよく分かんないけど聞いたところによると父親の実家がその長野県でそこを追い出されたのがきっかけなんじゃないかな。そこから、適当な借家に引っ越しました。かなりボロい一軒屋でしたね。そこからまた、小学一年生の時に三島郡寺泊町に引っ越して持ち家を買ったんです。田舎だから、家は割と大きかった。親の寝室と子ども三人の部屋も応接間や庭なんかもあったし。まあ、決して特別お金持ちという訳ではないんだけどさ。

−親御さんはどのような方ですか?
父親は普通にサラリーマンをやってて、ダイハツかなんかの自動車会社の営業もやってたみたいだし、農作業の機械を作るところの営業でそこでは一応部長ぐらいだったみたい。性格的には典型的な亭主関白で、怒るとこわかった。顔も中尾彬に似てて実際会うとたぶんこわいと思うよ(笑)。

−ご兄弟はどのようなは方々で、どんな関係性でしたか?
3つ上の姉と6つ上の姉がいる。
−ほう。男兄弟を欲しいと思ったことはないんでしょうか?
別に男兄弟を欲しいとは思わなかったねー。ゲームを共同で買えるみたいなお得感があるといいなと思ったくらいかな。そんな金銭的な単純なこと以外、姉が二人とも男っぽい性格だからかそういう感情は全く湧かなかったな。一緒にゲームとか普通にしてたしね。
6つ上の姉は年が離れすぎてて、あんまり話さなかったな。
3つ上の方とは、結構話したよ。人生の話や将来の話なんか結構した。
母親は一人じゃ何もできない人だね。始終明るくて、楽しい人。父親と良い関係ではあるんじゃないかな。女っぽい女性ではあると思うよ。話してて結構面倒くさい親だよー。本当典型的だねー二人とも。悪い意味でナイスカップルなんじゃない(笑) 僕ら子どもが大学や就職で出て行ってますます仲良くなったんじゃないかな。よく二人で出かけてたりするみたいよ。

−どんな小学生でした?
保育所時代から記憶あるからそこから話そうか。普通に友達と遊んでたし、昼寝の時間が嫌いで、タオルとかかんでたなあ。今から考えたら、移行対象の表れなんじゃないかな。今でも、時々指をかんだりするよ。悩んでる時期とか特に痛いぐらい噛んでたよ。
小学生時代は、特筆して何も言うことがないなぁ。友達を作るのに困ったこともないし、普通に友達とも遊んでたし、普通にいじめてたりもしたしね。
1学年12人くらいの小さい学校にいたから、いわゆるクラスの立ち位置がどうのとか無かったね。みんながみんな主人公だったから、客観的にみる機会がなったわけよ。みんなが主人公だからほんといい気になってたよ。みんながいい気になってた。そうだね、今からもつながる性格の傾向としては、やっぱり本が好きだったね。図書館で昼休みよくいたりしたね。人数が少ないから図書館によくオレ一人ってことが多かったんだよ。
でも、基本的にはみんな主人公だったから何も考えて無かったね(笑)だって、今小学校の友達と会いたくないもん。あの頃の自分と今の自分の考え方やスタンスが全然違うからね。

−どんな中学生でした?
1クラス40人で4クラスぐらいだから、いわゆるかなり一般的な中学校。小学生の時と比べて大人しくなったよ。でも結構スレてきてもいた。それを象徴する事件があって、クラスでの調理実習が嫌で一人で抜け出したりしたね。それで、すごいクラスで問題になったりもして、二年生からは友達の付き合い方にちょっと以前までと違和感があったことは確かだね。部活はテニスだった。体育会系の中では、あんまり運動ちゃんとやってない部活で、そんな部活に集まってくるのも変な奴が多かった。その分、面白かったことは面白かったよ。だから、中学で特筆するべきものはほんと部活くらいで何もないや。高校受験は推薦だからやってないしね。でも、高校は普通のところに行きたくなかったから、普通科じゃなく農業か工業か商業とかにしたかった。で、結果として商業高校に行ったっていうわけ。短絡的だけど、「普通」っていう言葉が嫌いだったっていうのがあったよね。ただ漠然と。その時は馬鹿だったんで(笑)あとは、同じ中学の奴が行かないようなところあえて行きたかった。どこか、やりなおせるという願望があったんじゃないかな。恥ずかしい話だけど(笑)。

−どんな高校生でした?
高校でも一応テニスに入ったけど、一ヶ月で辞めちゃったね。ほとんど女の子だったし、そもそも友達の付き合いで入っただけだからね。で、何してたかというと、普通に皆で遊んでた。すごい面倒くさかったけど。本当はすぐに家に帰りたかったんだけど、ノリが「お前もう帰んのかよー」って感じで相当ウザかったね。死ねよお前らとか思ってた。
二年生ぐらいの時には、もうそんな友達付き合いもしなくなって、ひたすら自分との対話を本格的にし始めたね。日々、非常に生きづらさを感じていたのもこの辺の時期からだね。それがきっかけかどうか分かんないけど、同時期に青年誌のマンガが面白いと思い始めて、『バガボンド』とかをきっかけに『MONSTER』や『ジパング』なんか割とメジャーではあるんだけど、青年マンガをどんどん読み漁っていったね。
三年になってからは、マンガを買うためにブックオフに毎日通ってた。生涯読んだ本ベストテンとか今から考えるとイタイことを頻繁にしてた時期でもある(笑)。
進路の問題は、高校側からも親側からも色んなことを言われたけど、お前らに言われる筋合いはないよみたいな反抗心があったね。就職とか進学とか私たちがさせてやるみたいな偉そうな発言に対して、良い気になんなよみたいな感情が常にあった。それで、自力で何とかしてやるという気持ちがあって、進路相談の時に「卒業後、一年間独学で勉強して公務員を目指します」とかもっともらしいこと言ったんだけど、親にも先生にも凄い怒られた。

−なぜそんなに自力で何とかするという気持ちが強かったんですか?
親に養われているという問題が自分の中ですごく大きくてそのことが解消されない間は人生楽しめなかったんだ。親に養われているのにバイトをやるのは違うという考えからバイトもできなかったし。
で、結局親を説得できずに大学に行くことになった。でも、その代わりとして大学を利用して県外に出て一人暮らしをしてやろうみたいな企みがあったわけ。

−どんな大学生でした?
入る前から希望はなかったし、人と付き合う気もなかった。マンガが読めることと一人暮らしができることが唯一の救いだった。大学については本当に何も考えてなかった。
マンガについてはさらに色々読み始め、原付を手に入れたこともあり、色んなブックオフを回ったりした。あと、学科が哲学だったこともあって、哲学書を読み始めたのもこの頃だね。これをきっかけにやっぱり人生を考えたりもした。もう一つ、音楽的に言えば大学一年の時はずっとブルーハーツ聞いてた(笑)
一年の後期の秋頃からマンガを描きはじめ、同時に日記を書き始めたんだ。
二年生になってからは、哲学書を自分で読んでるという免罪符のもと全く授業には出なくなった。で、どうなったかというと、寂しい、苦しい、僕孤独みたいな(笑)でも、やっぱり人と関わりあいたい、人と分かりあいたい、という気持ちはあって。で、ネットラジオというものをし始めたわわけ。その中で人と気後れせずに関わるにはやはりマンガしかないということで、ラジオタイトルも「マンガラジオ」というものにした。
で、実はあらかじめ父親と約束していた、大学に対してやる気が起きなければ二年で辞めていいというのがあって、自分の中でも結果として二年間辞めることだけを考えて生活していた状況もあり、退学届を書いてもらうということで大学に関しては決着をつけた。
−それからはどうしたんですか?
当然ながら、親からもこれからどうするんだ?というのは聞かれるわけですよ。で、住み込みのバイトをしますということで、2月に大学辞めてすぐ3月に引越しして、神奈川の箱根で住み込みのバイトをし始めたわけです。

−それはどんな生活だったんですか?
やっぱり寮だったし、まず仕事ありきでしたよ。外界から遮断された山の上でやることもなかったですしね。でも、生きてれば幸せみたいなゆるい価値観がその当時は哲学なんかを通してあったんで精神的にはしんどくなかったよ。でも肉体的にはホテルの皿洗いだけあってやっぱりしんどくて、腱鞘炎になりましたね。そういうきっかけもあって、4ヶ月程度でそれは辞めました。後やっぱり、僕が飽き性っていうのが一番大きな要因で、ずっと同じ環境で過ごすのは楽だろうけど、果たしてそれでいいのかという戸惑いもありましたしね。

−で、東京に上京してくるわけですね。
そうですね。そういえば、東京に上京してからもうすぐでちょうど一年になります。この一年は、部屋を探して、仕事を探してという感じで割と忙しい一年だったんですけど、今までの人生をリセットする気でいたんで、そういう意味では自分の生活をやり直すことができたんじゃないかなという気がしています。

−では、松澤さんが生きていくうえで、一つ鍵であった自分の力で生きていこうという試みがあった訳ですが、それを達成した上で何か見えるものはありますか?
ないですね。達成した上でこれからも生きていこうという気持ちがあるだけです。

−それでは最後に、今の大学生について先輩としてどう生きていけば良いかアドバイスはありますか?
人生は甘い。よく甘くない、甘くないと言われるけれど甘いと思う。
だから、どんどん道を踏み外してもいい。やりたいことをやるべきだと思う。
甘いからこそ、甘えに浸っていず、何か無茶なことをして欲しい。
あと、単純ですが自分の楽しいことをやれよっていうのはありますね。

おわりに
ネットを介した音声でのやりとり(電話と同じ機能)ではあるが、5時間近くも話した内容が今回のレポートには詰まっている。時間の割に分量が少なくなってしまったが、これはまだまだ私の能力が足りないせいだろう。先の「はじめに」で語り残した今回のインタビューによる収穫であるが、取って付けたように言ってしまえば就職に対して肯定的になれない現代の若者の心情を捉えることができたと言えなくもないが、正直言ってこんなものはケースバイケースであって、こういう総括の仕方はどうにもうそ臭い。しかし、何も価値は無かったのかというとそうでもないはずだ。個人的な感想に留まってしまうのだが、私たち大学生に向けられたアドバイスは現代の大学生の葛藤を上手く言い当ててつつ解消する非常に価値のある助言ではないだろうか。私としては、あの最後の言葉を引き出せただけでもインタビュアーとしては非常に幸せである。