「インタビューするということ/されるということ」(mixi転載)

インタビューはして、それで終わりではない。
インタビューされた対象者は、思い考え、そして動く。
そうなった時、インタビュアーは何も手出しができない。
私のインタビューが対象者の言葉によって上書きされていき、あっけなくも全てが無効化される恐れがある。

インタビューとは何なのか。なぜ聞き手が存在しなければならないのか。
そういう問い自体に気づかされたきっかけが、まさにインタビューされた対象者の言葉からなのである。

インタビューされた対象者がインタビューされたことについてこうも語ることは非常にめずらしいだろう。
私は、「あのインタビュー」と「これから転載する彼の言葉」を合わせて一つの新たな作品なのではないかと、彼の言葉を読んだ時に思った。

前置きが長くなった。読んで欲しいのはここからである。一息ついて僕の文章と切りかえて欲しい。
私にとって、インタビューされた対象者が思考する瞬間である。


(以下転載)
「あたし!インタビューされる人になりたかった」


安彦麻理絵の自伝的漫画『あたしのすべて』の台詞である。


 私は、何でもいい、何らかの分野で注目、そして成功してインタビューをされたかった。何者にも取って代わることなく人生の主人公でありたい。そんな自分を見て欲しい。肥大した自意識、自己顕示欲を持つ若者の多くに響き渡る言葉なのではないだろうか。紛うことなく私もそんな一人であった。

 つい先日私は、自分が趣味で行っているラジオを通じて知り合った方から、大学の授業で他人のライフヒストリーを調べレポートするという課題のためインタビューを受けた。私にとって願っても無い場面であったため二つ返事で了承し、自分の生い立ちを語らせてもらった。
 そのレポートがついしがた出来上がったという事で読ませてもらったのである。

 最初にあまりにも見慣れすぎた自分を今更振り返っているという事への一抹の恥ずかしさがついて回った。私は注意深く一語一語追って文を読んだ。見慣れた内容であるのにそれを客観に置き換えて書かれるという事が自分にはとても新鮮な事であった。
 タイトル「自分の力で上京した青年の苦労と葛藤」
青年。そうか、私は世から青年として括られているのだった。

 読み終わると私にはもの悲しさと恐れが残った。私の今までの人生はこの数十行程度のものだったのか、と。レポートは私の喋った事の書くべき要点がきちんと抑えてあり非常にいい出来だと思った。だからこそ数十行で片がついた事はもの悲しさが残ったのである。
 筆者の弁を借りれば、
「5時間近くも話した内容が今回のレポートには詰まっている。時間の割に分量が少なくなってしまったが、これはまだまだ私の能力が足りないせいだろう」
 との事だが、私はそうは思わない。それほどまでに密の薄い、希薄な人生を私は過ごしてきたのではないかと思った。そして筆者は取ってつけたようだが、と前置きした上で
 「就職に対して肯定的になれない現代の若者の心情を捉えることができたと言えなくもない」との解釈を提示している。この文面の内容がこの場において重要なのではない。私は現代の若者なのである、という事実がこの文から強く頭に残ったのである。私が今まで様々なところで耳にした現代の若者というもの、時に私もそれに対し何らかの批評を試みた事もある。しかし何のことはない。私も現代の若者として括られていたのだ。
 インタビューを通したことで直接的に自分が批評の対象となった事が私には恐怖だった。私は主人公でありたかった。それは決して今自分が主人公として生きてはいないということを意味しており、私は自分を見て欲しいという感情とそれにより値踏みをされるという事を恐れる感情の両方を持ち合わせていたのだった。

 今回のインタビューというものは自分の人生を他人を通して客観的に把握できたという貴重な体験である。私はこの先、私が思うままに生きられるだろうか。もの悲しさを克服すべく、わが道を歩めるだろうか。それともそんな道に恐れおののいて隅でうずくまっているのだろうか。
希望的観測を持ってしてこの文を締めたいところだがそれもできそうもない。
 ただ一つ言える事はこれからも私の物語は続いていくという事だけである。

 人は誰でも自分のことを書けば物語を一つ作れるという。そして他人の個人史というものは否応無しに面白いものである。私の物語は誰かにとって読むに耐えうるものであったのだろうか。
 そして私も今度誰かにインタビューというものを行ってみたい。

そう思った今回の出来事である。