資料1

[レポート]倫理学B 08/01/10

安楽死に「死ぬ権利」は適用されるか

0.はじめに
今回受講した「倫理学B」は、私にとっていささかやり切れない事態を生みだした。それは、今回の「倫理学B」を受講することによって、日々私が思考している道徳的な考えを既成の倫理学という学問を導入することによりどれだけ進歩させるかを期待していたのだが、授業を通して得られたことはやはり自分自身の考え方を再考する機会を得られただけであって、少々授業として刺激が小さかった嫌いがあるからだ。
哲学や社会学の授業では、極めて悪く言ってしまえば日々私たちが考えているところからどれだけセンセーショナルな形で離れられるかという、私たちからすると非常に刺激が大きい学問である。そう考えると、この倫理学という学問は一般的な規範や道徳について考察する学問とある通り、規範の中でいくら思考してみてもその中で生み出された思考は既にバイアスがかかった非常に危険なものとなる可能性があるということを認識しつつ、できるだけ規範の外で論じることを自覚しながら、やはり私の道徳的な考えを再考してみたいと思う。

1.安楽死を「死ぬ権利」から考察
まず、この問題を考える前に具体的事例として東海大学安楽死事件を取り上げてみたい。それは、1991年4月、東海大学医学部付属病院(神奈川県伊勢原市)の助手医師が、ガンで入院していた男性患者の家族から強い要請を受け、患者に塩化カリウムなどを注射し死亡させたとして、殺人罪で起訴された事件である。
この事件は当時様々なところで安楽死を焦点に議論が交わされた。そこで、私もこの議論に参加する前に自分なりに安楽死の定義を構築してみることにする。安楽死とは、大辞林 第二版によれば「助かる見込みがない病人を苦痛から解放する目的で、延命のための処置を中止したり死期を早める処置をとること。また、その死。」とある。ここで重要なことは、常に第三者の介助なしにはその人が死に至ることはできないという点である。もしその当人が自らの力によって命を絶つことが可能であれば、それはたんなる自殺である。よって、安楽死は常に第三者による慈悲殺であり、それゆえにその第三者の倫理的あるいは法律上の責任(自殺幇助あるいは嘱託殺人)が問われるのである。
ここで、人は「死ぬ権利」があるのかという問いについて私の考えを明確に示しておきたい。私は人が死を自ら選択する権利は存在すると思っているし、存在するべきだと思っている。反論として、「生まれる権利」が考えられないように、「死ぬ権利」も根拠の乏しい権利主張であるという考え方がある。しかし、今のところ論理的に説明する能力が私にないことが非常に歯がゆいのだが、感覚的に生と死の概念はどこか違う気がしてならない。生まれるという行為は、当人にとって主体性なき行為である。主体性が存在するのは、もちろん生む側の人間であろう。そう考えると、あくまでも生まれるという概念は生むという概念に置換されるべきだし、この行為はあくまでも生む側の生殖行為にすぎない。一方、死ぬという行為は、一般的に見てみれば死ぬ当人による主体的行為である。社会学的見地などから考えれば、社会や当人以外の力によって死を選択させられているという見方も存在するが、それは置いておいて生と死の概念はそもそも意味合いが違うというところだけをひとまず結論とさせて頂きたい。
そして、再度安楽死である。では安楽死による「死ぬ権利」とはどういうものを意味するのか。ここで意味される「死ぬ権利」とは、当人が死にたいという持続的でかつ強固な意思を表明するとき、第三者には彼を死なせる、あるいは死を援助する義務が発生するということである。「死ぬ権利」とは、そもそも人間の自由意志を尊重するという個人主義的文脈で語られるものである。ならばその自由意志とは、国家や他人の干渉を受けずに私的なことを自分で決定する権利であるはずであって、国家や他人に対してそれら道徳的あるいは法律上の義務を課すという意味での権利ではない。
では、ここでやっと東海大学安楽死事件の考察に入るが、判決は殺人罪となっている。これは、患者の死を望む意思表示がなかったことからであるが、これまでの私の考えを踏まえるならば、患者の意思表示なき死に対しては、死に至らしめた行為者が殺人罪を問われるのは自明である。
しかし、もし患者の意思表示がある場合、私たちはどうすればよいのだろうか。現行の倫理から依拠した形での私なりの結論は先の通りだが、それから一歩進んでどうすれば積極的安楽死を倫理的・法理論的に認めることができるのかということをあえて考えることによって、非常にセンセーショナルな形での反証を試みてみたい。
先の結論を導き出した上で非常に重要であった積極的安楽死は国家や他人に対して道徳的あるいは法律上の義務を課すことができるのか否かという問題だが、実際にこの問題に対して社会が悩んでる姿を如実に映し出している興味深い事件がある。オランダの1991年に起きたシャボット事件は、離婚や息子の死により精神的苦痛を訴えた患者を医師シャボットが死に至らしめたというもので、判決は自殺幇助罪により有罪であったが刑罰は科さないという奇妙な判例であった。これは、オランダ刑法第9条「裁判官は、事案の軽微性、行為者の人柄、または行為が行われた際の事情、さらには行為後の事情を総合して、適切であると考える場合には、不処罰または不処分の判断を下すことができる」によるもので、今回の行為は医療行為の一部であり、又その行為が適切だったとの判断から無処罰であった。しかし、このように正当な医療行為という盾によって刑罰を免除することは、一般社会の倫理規範の及ばない非常に危険なものになりかねないのではないだろうか。このように医師だけの特権を認めれば、倫理規範そのものを崩す可能性もあり、やはり積極的安楽死については相当慎重な姿勢であるべきだと考えられる。

2.おわりに
今まで私なりに考えてきた結論としては、自殺以外に積極的死というものは存在するべきではないという主張だ。
考察の組み立てとして、「死ぬ権利」の肯定。次に、第三者の介する安楽死という概念は「死ぬ権利」に該当しない為存在するべきではないという主張。そして、第三者の介する安楽死の危険性という風に進めてみた。ここからぎこちなくではあったが、最後の、第三者の介しない死つまり自殺のみを「死ぬ権利」に基づいて肯定するという結論に至った。ここで全く取り上げていない尊厳死については、正直言ってまた次の機会に譲るしかない。が、ここでの結論に準拠にしながら、簡単に考えてみれば自らの力のみで行う死については紛れもなく自殺と同義であることからこれは肯定したい。それ以外については、今のところ否定の考えを取ることにする。
今回、このレポートを書き始める前は、安楽死に対して正直言って何の結論も持っていなかった。それが、今回をきっかけに自分なりの結論を持てたことはこの課題に非常に感謝している。非常に有意義な時間を持てたことを担当講師にも合わせて感謝したい。

参考文献
坂井昭宏編 1996『安楽死尊厳死か』北海道大学図書刊行会