資料2

[レポート] 社会学 08/01/11
恋愛の未来像について −「状態」としての恋愛−


0.はじめに
今回、「社会学」の授業を通して、一番自分語りが出来るものは何かと考えてみた時、やはり恥ずかしながらも恋愛の社会学について論じるという結果になってしまった。サブカルチャーポストモダンについて論じてみても面白いかとは思ったが、どうしても先行で研究している方のエピゴーネンにしか、なりそうにないという判断から今回は諦めることにした。

1.素朴な問いからギデンズへ
「なぜ、今私は恋愛で幸せになれないのか」、という素朴な問いがここ数年間、私の中の問題として非常に深刻な状況でたち上がっていた。しかしこの問題と向き合う中で、私だけの問題として消化するのではなく、社会的な枠組みの中でたち上がってきた私たちの問題として捉えるべきではないのかという意識が非常に高まってきたのである。そこで、今回はあえて「なぜ、今私たちは恋愛で幸せになれないのか」という問題設定のもと話を進めていきたいと思う。
その問題の内実とは概ね次のようなものである。好きな人と恋愛をして、ふさわしい時期になれば結婚をし、子どもを産んで、安らぎのある家庭を作るという「平凡だが小さな幸せ」というものへの憧れと、この憧れがどこか現状と合わないもしくは幻想なのではないかという感情との矛盾である。
 この矛盾を考える上でまずギデンズによる「ロマンチック・ラブからコンフルエント・ラブへ」の主張を取りあげておく。
ロマンチック・ラブとは、近代以前の恋愛と結婚が別物として捉えられていた時代、つまり結婚を経済的・社会的要因でなされていた時代から「個人」が浮上する中で登場した概念である。そうした個人主義自由主義思想の時代に結婚/家族という中に恋愛という概念を入れ込んだ「近代家族」が形成される。つまり、法や経済的な要素が入り込む近代以前の結婚の概念をそのまま肯定的に受け入れ、その中に新たに浮上した「恋愛」という概念を入れ込んだ関係性である。
一方、コンフルエント・ラブとは、そこからより「恋愛」が中心的な位置を占めた関係性を指し、結婚も以前の概念ではない、「情念の結びつき」のみで繋がる純粋な関係性へと変容していくというのが、ギデンズの主張である。
では、先の矛盾をこのギデンズの主張と照らし合わせてみた時、現代の恋愛はロマンチック・ラブ的な結婚の概念の呪縛から解き放たれずに、関係性だけはコンフルエント・ラブを望んでいるという不安定な状態であると言えるのではないだろうか。

2.改めて「恋愛」の定義を考える
そうすると次にこの不安定な状態からいかに抜け出すかという問題が浮上してくる。
そこで、その問題を考える前に改めて「恋愛」という定義についてギデンズから離れたところで少し考えてみたい。
岡田斗司夫は、恋愛の構造をテニスに例えてこう説明している。

テニスをする人々を「純粋にテニスが好きな人」と「チャンピオンの座が好きな人」に分けた場合、たいていの人は前者に属すると思います。それが「テニスが好き」ということですね。しかし、これを恋愛に置き換えた場合、私はみな「チャンピオンの座」が好きなのではないか、と考えるのです。これまで、恋愛と呼ばれていたのは「自分だけのたった一人の人と出逢って、その人とずっとラブラブでいる」ことですね。それは、テニスの例でいうところの「チャンピオンの座」になるわけです。本当にテニスが好きな人は、毎年のようにトーナメントを一からやり直します。つねに試合、試合の連続なわけです。恋愛においても、本当に“恋愛そのもの”が好きだ、というのなら、一つの恋愛に絞る必要はありません。何回も、何人とでも試合を繰り返せばいいのです。[岡田,2003,p.120-121]

この説明によると、「恋愛」とは人を好きになる行為そのものということになる。ここに私は恋愛の本質を見た気がする。この主張を用いるならば、「浮気をするな」などの自分以外の人間を恋愛対象として見てはいけないという考えも「恋愛」そのものを否定することになり、ギデンズの着目する「純粋な関係性」の概念だけでは捉えきれなくなってくる。
そこで私は「関係性」に代わる新しい恋愛の概念として、最後に「状態」としての恋愛という概念を新たに提示したい。

3.「状態」としての恋愛
「状態」とは、人を好きになっているという状態をいかに作り上げるかというのが価値になってくる。?それはどのような理由であれ、自分自身が他人に対して魅力を感じ、好きになった時点で価値とされ、その理由は経済的・社会的魅力でも構わない。?自分自身の「状態」に重きをおく為、複数の人を好きになっても構わない。(しかし、同時に相手にも複数の人を好きになる権利を与えなければならない)?結婚という自分自身の気持ちを妨げる束縛された社会制度には否定的となる。?自分自身にあった「状態」を作り上げることが重要視される為、「特別な」人や関係性という概念は解消される。

4.おわりに
いささか飛躍し過ぎた論を提示してしまったと自分でも思っている。しかし、ギデンズの「特別」や「純粋」という恋愛に対する価値をもっと身近な「日用品」の恋愛として転倒させる狙いが一つにはあった。又、近年出てきた『電波男』に象徴される二次元に萌える男たちという事象をも取り込める恋愛の概念が自分としても必要だと感じていたからである。もちろん、二次元に萌える彼らも自分自身の「状態」に価値を見出している為、恋愛の一つの形態であると判断できる。
最後に「今、私たちはどのように恋愛をしていけばよいのか」という問いを解消してみたい。まず、結婚にも密接につながる一人の人といつまでも愛し合うという幻想を捨て、又恋愛は特別な関係性を維持し続けなければならないという幻想も捨てるべきである。その先に、複数対複数の恋愛や片思い、二次元の世界など自分にあった開かれた恋愛モデルを見つけることができるのではないだろうか。

参考・引用文献
Anthony Giddens 1992“The Transformation of Intimacy” Polity Press =1995,
松尾精文ほか訳『親密性の変容』而立書房
1999 “Runaway World” Profile Books =2001,
佐和隆光訳『暴走する世界』ダイヤモンド社
本田透 2005『電波男三才ブックス
岡田斗司夫 2001『30独身女、どうよ!?』現代書林
2003『恋愛自由市場主義宣言!』ぶんか社